実家の犬が踊る

狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり

あなたが今すぐ凡百な自己啓発本を捨てて「名人伝」を百回くらい読むべき理由

 昔、他所で書いた日記の再利用。

 たまには煽りっぽいタイトルも試してみよう。タイトル詐欺。よく、本で言うなら名著、良書から学ぼうという人がいるけど、実はそもそもが逆なのである。どんなことからも学べる人間がいて、その学べる引き出しというかバリエーションの中に名著があったり、良書があったりするのだ。別に読書論を打ちたい訳でもないので、そこらへんは他の人がやんややんやとやってくれればいいと思っているのだけど、僕の感覚で言うなら本を読んで何かを学びたかったり何かを得たりしたいなら、もっとシンプルに言えば自分の血肉にしたいのならば、その方法の一つは百回読める本を探すことである。大抵の本は百回もの繰り返し読むには耐えきれないし、読者も百回も同じ本を繰り返して読む前に人生が嫌になってしまうだろう。

 

 

 まあ話の枕に適当にでっち上げた話は三秒で忘れるとして、それはそうと中島敦の「名人伝」は超絶面白い。面白いというか単に自分が好き過ぎるだけなんですが、知っている人はあまりいない印象。弓道とかやってる人は3人中3人が知っていてさすが! と思った記憶がある。「名人伝」自体を読んだ事なくても、傲慢な男がタイガーになる超傑作「山月記」なら教科書で読んだ人は多いのではないでしょうか。

 「名人伝」に心酔している僕ですから、主人公の紀昌さんは人生におけるモデルケースの一つであるわけです。たぶん僕が自己啓発本とかにあまり心惹かれない理由はそこにあるのではないかとすら思う。出回っている本の内容のほとんどが「名人伝」を希釈したような内容でしかないか、非「名人伝」とも言うべきような「名人伝」とはかけ離れた内容である、とすら言いそうになるが我慢している(当たり前だけど)。

 

李陵・山月記 (新潮文庫)

 

 興味持った人はぜひ一読されたし。

 これから名人伝について適当にダラダラと書いていく。

  

●志を立てる

 

 まず、主人公の紀昌さんは天下一の弓の名人になる事を決意するわけです。具体的に(達成の目処がある)目標を立てるというのは大事ですね。これはどんな啓蒙本にでも一番最初に書いてある内容ではないでしょうか。カッコの中は書いてないのもありますが、紀昌さんはこれから人生の丸ごとを弓の名人になる事に注ぎ込む決意の人なので、天下一の弓の達人というのはとても現実的な目標なわけです。

 

 

●信頼できる師を見つける&狂気を以って修練する

 

 紀昌さんがまず初めにしたのが、現在においての弓の名人を探す事でした。先達がいれば先達に必要な部分は学ぶ。使えるものは最大限利用する。あらゆる分野で専門化が進んでいて、教わらないと学べないという現実もある現代においては、「名人伝」の時代よりも特に重要といえましょう。ここで変な意地を張って最初から独学で行こうと考えるのは素人。この良き師匠に恵まれるというのは超重要で、凡百の本によってはメンターとか言われている存在っすね。

 あともう一つ重要なのは、全てのリソースを目標のために注ぎ込むということ。まあ精神論に近いのだけど、問題解決や課題達成の仕上げのほとんどがオーバーパワー、力技なように、万策を尽くしての果てはやはり精神論なのだと思っている。人間がフルパワーで活動できる時間が限られているのと同様に、エンジンとか原子力発電とかの仕組みと一緒だけど、安定した出力を得たければ、それ以上のエネルギーが必要ということ。時速100キロを維持して走りたければ、120キロ出せるくらいのエネルギーをエンジンは生み出さないといけない。遺産相続をしても相続税で何割か持ってかれるように、伝達ロスとか世間のしがらみなどが色々あるのである。だから「全ての」、は現代では「できるだけ」になるんだろうけど、「できるだけ」と「効率的に」はちょっと違う気がする。

 

 

 まあとにかく紀昌さんは師匠に言われて、まばたきしないように訓練を開始する。奥さんが機を織っている下に潜り込んで、機が目の前で動いてもまばたきしないようにする訓練を2年くらい続けます。それぐらいでなければ物事は上達しないというものです。奥さんが、旦那が変な角度から自分を見つめてくるのが嫌だと言っていてもそんなのはガン無視です。効率的に? 合理的に? クソくらえです。不合理と、これだという思い込みに近い信念あるいは狂気の果てにしか物事の上達はありえません。

 この結果、紀昌さんはまばたきも忘れて目を開けたまま寝たり、蜘蛛の巣を張られたりしますが、特に気にしません。細かい事を気にしてはいけないのです。その後も紀昌さんは妥協せず、虫が馬の大きさに、人が塔の大きさに見えるまで3年くらい鍛錬します。そうなってくると的は大きいし、ノミの心臓も射ち抜けるレベルにまでなるのです。

 

 特筆すべき点は、師匠がここで初めて、ようやく弟子の紀昌さんを褒めるわけです。褒めて伸ばすと言いますけど、ただ褒めればいいというわけではなく、褒めるポイントがちゃんとあるのです。師匠は単に技量が上というだけではなく、自他の実力を正当に評価できる必要がある。そこがちゃんと分かっているからこその師匠なのです。ここが分かっていないと、伸びるものも伸びません。この部分をちゃんと理解していて実践できるというのは偉大でしょう。どれくらい偉大かと言うと、師匠の下でグングン成長を実感していく紀昌さんが、天下一になるためには師匠をブチ殺さにゃなるめいとつい考えてもおかしくないレベルで偉大な師匠なわけです。そして、そんな師匠も師匠でうっかり殺されかけたり、なんとか和解したりして、コイツやべーなー。もう俺の手に負えんわーと思って、さらに上の達人を紹介してくれます。達人であればあるほど自分の限界を熟知し、他者の才能を見抜くものです。そしてさらに上の達人を紹介してくれます。達人は達人を知るのです。このように良き師匠を探し、狂気に近い修練を積む事の重要性が分かりますね。

 

 

●何かを極める、突き詰めるということ

 

 そんなこんなで、新たな師匠のもとへ向かう紀昌さんですが、新たな師匠に自分の腕前を見せようと、一射で五羽もの鳥を落としてみせる紀昌さん。しかし、師匠はさらに上をいくのです。なんと師匠は、弓を引く真似をしただけで、射たれたと鳥が勘違いして落ちてくるのです。師匠が言うには驚くべきことに、さらに弓を極めると弓がいらなくなるというのです。一つの道を極める、という事の深淵を見た紀昌さんは師匠の下でさらなる鍛錬を積みます。そして九年後、紀昌さんは籠っていた山を下ります。かつてのギラギラした面影はなく、木偶のような愚者のような容貌になったとか言われる紀昌さん。手には弓も持っていません。聞けばどこかに捨ててきたらしいのです。これ、紀昌さんの事を俯瞰的に知っている僕たちからすればなるほどと思うんですが、普通の人が聞いたらわけわかんないです。「これから俺の車でドライブ行こうぜ、免許? 持ってないよ!」とか「会社に行くから全裸になるか」みたいな事を言ってるのと同じだからです。そんなわけわかんないと思ってる人達に、紀昌さんがめんどくさそうに「至為は為す無く、至言は言を去り、至射は射ることなし」と言うのです。つまりそういうことです。

 

 山を下りてからの紀昌さんは前述の言葉通り、弓に触ろうともしません。それでも人々は紀昌さんを弓の名人だと讃えて、彼が弓の達人過ぎる色々なエピソードが紹介されます。この辺りは無茶苦茶過ぎて面白いので、原文で確かめてもらいたいね。美人過ぎる○○ならぬ、達人過ぎる弓の名人です。初めて読んだ時も笑ったのは、達人過ぎて鳥が紀昌さんの家を避けているという話。射つべきものがなければ弓必要ないよなあとえらく納得したし、読み返すたびに腑に落ちている。「名人伝」のこのエピソードが気に入っていて、だからその他の物語などで、この境地の匂いを感じるものは大抵好きである。たとえば有名どころのの漫画なら「ハンターハンター」のネテロ会長が武術を極め過ぎて最終的に感謝の境地へ至ったり、「バガボンド」で後期の武蔵が時折考える天下無双の結論だったり、「ヴィンランド・サガ」ならトルフィンの父親が目指した「本当の戦士」なんてのもその匂いを感じる。

 

 

●最後は忘れる

 

 まあ弓に触らないし、ほとんど喋らなくなるし、呼吸も忘れている境地へと至っていく紀昌さんなんですが、数十年後にそのまま死んでしまいます。そして、最後にその死ぬ前のエピソードが紹介されるのですが、これが「名人伝」を「名人伝」たらしめている結末である。何事においてもどこへ着地するか、どう終結させるかというのは最大のテーマと言っても過言ではないですが、「名人伝」はこの問いに一つの答えを示してくれている。つまり、忘れる! これですよ。

 紀昌さんが死ぬ前の何年か前に、人の家に呼ばれて行ったら、その家の中に見覚えあるけど名前も用途もさっぱりわからない道具があって、これなんすかって家の主人に尋ねるというやりとりが紹介されているんだけど、これを聞いた主人の台詞は、まさに話を締めるのにふさわしい台詞なので、引用しておく。

 

「ああ、夫子が、――古今無双の射の名人たる夫子が、弓を忘れ果てられたとや? ああ、弓という名も、その使い途も!」 

 

 

 これは読み返すたびに背筋が震える台詞だ。僕もあと何回「名人伝」を読み極めて実践すれば、「名人伝」の事を忘れる日が来るのだろうか。

 

李陵・山月記 (新潮文庫)

李陵・山月記 (新潮文庫)