実家の犬が踊る

狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり

「山月記」が刺さる

 この前「名人伝」の話をしていたら、活字で読み返したくなって本屋で新たに買ってしまった。いつもの新潮文庫版。この本だけはなぜか数年ごとに買っては捨てたりしている。よくわからないけど。 

 

 それで読み返しているんですが、やはり「山月記」が年を取るたびに刺さる。初めて読んだのは中学の教科書でだったんだけど、その時は傲慢な人間が虎になって人間だった頃の傲慢さを悔いる、くらいの単純な話にしか思っていなかった。それでも十分面白かったし、何度も読み返した。まあ虎になるって所が既に中学生の心を掴んでいたね←  

 

 そして何度も読み返しているうちに、ああこれは才能がなかった凡人の話だ、と気付いた。何かを成したいが、努力しても届かないでそれでも諦めることのできなかった絶望の話だ。自分が好きな短篇「名人伝」と同じで、だけど真逆の人間を描いた話だ。

 

 山月記って、努力して勉強して公務員になった秀才が「おれ、文学の才能もあるんじゃね? 公務員の仕事以外にも可能性あるんじゃね?」と思い、仕事を止めて執筆活動に入るけど全然芽が出ない。妻子もいて生活キチーから、もう一回再就職するけど、かつて自分が格下に見ていた中卒や高卒の後輩が上司になっていて、こき使われて給料も安い。高かったプライドもボロボロ、そんな生活に耐え切れず山に失踪してしまった人間が虎となって、かつての旧友と出会うという冒頭なんだけど、こう書くと何だかうわーという気分になる。

 この虎になった李徴という人間は、怠惰な自分でもあるのだ。自分は何かしているのか、無意識に諦めているのではないかとついつい自問してしまう。自問してしまうってことは何もしてないってことだ。後ろを振り返る人間ほど前に一歩も進んでいない現象である。それだったらむしろ、本能のままに食っちゃ寝して屁をこく虎になれたらある意味では楽なんだけど(熊でもいい)、今のところ虎にも熊にもなる気配は訪れない。それは自分論理によればちょっとした希望なので、やる気が出てくる。

 

 ある意味では自分の才能や可能性を信じるというのは傲慢さなのかもしれないけど、それが悪いとは思わない。それが身の丈に合ってなくてもだ。いやいやそれでも、そういう人がいて自分が憎悪を抱くことがあるのかもしれないにしても、それは悪くないのだ。皮肉も込もっているが、そのまま頑張ってほしい、と思っている。

 

 「名人伝」はそのまま頑張ってしまった話で、傲慢を突き通してしまった人間を描いているのに対し、「山月記」は傲慢を突き通せなかった人間を、人間の弱さを描いていている。どちらも面白いし、あと自分が何で定期的にこの本を捨てているか少しわかった気がした。この両作は薬と毒みたいなものだ。薬「名人伝」だけ読むと気持ちが浮ついて、毒「山月記」だけ読むと気持ちが沈む。両方合わせて服用した方がいいのかもしれない。

 

 

李陵・山月記 弟子・名人伝 (角川文庫)

李陵・山月記 弟子・名人伝 (角川文庫)

李陵・山月記 (新潮文庫)

李陵・山月記 (新潮文庫)