ハングリー精神は腹をすかせても宿らない話
自分にはハングリー精神が足りない。夜道を歩いていて、そう思った。
お金がもっと欲しいとは思ったり言ったりするが、でもそうは言いつつも自分は基本的に無欲なのかもしれないなあと思った時だ。
自分にはハングリー精神が足りない。
でも、ハングリー精神って何だ?
そう、思った。まずはハングリー精神を知ることだ。そして、それを知ることができれば、ハングリー精神を持つことができるのではないか。
という訳で、この前の休みに三食抜いてみた。間食も抜いた。
お腹が減った。
空腹である。
ハングリー。
こうしてリアルハングリーになってみたが一向に湧き上がってこない。ハングリー精神が。ハングリー・セイン氏が。
空腹は人間の頭脳を時として鈍くし、時として明晰にする。
その時、ふと自分の頭の中にひとつの閃きが走った。
健全な精神は健全な肉体に宿る。
そんな格言がある。これが誤訳であるというのは有名な話かもしれないけど、本来の意味は「健全な精神は健全な肉体に宿ったらいいなあ」という願いの言葉らしい。つまり、通常は健全な肉体に健全な精神が宿るとは限らないという現実があったということだ。
だから、空腹になってもハングリー精神が宿らないというのも頷ける話である。確かに、冒頭の己の思いつきのように、空腹になったらハングリー精神が宿ったらラッキーであろう。しかし、現実は厳しい。プチ断食により、体温は下がり、全裸で10キロマラソンをする気力もない。お腹一杯でもする気力はないけれど。
自分が空腹の中で思ったのは、ハングリー精神って、空腹の対極にあるもんだよなあってこと。言うなれば、満腹で食べ切れないのにもう一品注文する人が持っている精神。足りているのを自分でも分かっているにも関わらず、それをさらに求め続ける、その過剰な貪欲さである。自分の許容が分からないならいい。だが許容がわかっていてそれをオーバーフローさせるのはなんか違うだろう。中国のテーブルマナーでは料理をすべて綺麗に平らげてはいけないと言う、むしろ失礼にあたるのだと言う。食べきれないほど山ほどの料理だったという意味で、少し残すのが礼なのだと。その話とは違うけど、あえて容量以上の器に水を注ぎこんでわざとこぼしてしまう。それは果たして贅沢か。何に礼を尽くしているのか。ただ、そこにあるのは自分には器からこぼしてしまうだけの水があったと誇示したいだけの、醜悪な自己満足だけである。ハングリー精神ってそういう方向の貪欲さなのだと思う。
なんかテーブルが寂しいからとか、そういう理由で食べ切れる見込みのない料理をとりあえず頼む。そういう人がたまにいる。それは居酒屋などで自分がブチ切れる行動のひとつでもある。結果的に食べきれないで残すのが悪いのではなくて、結果的に残そうとして、おそらく無意識に過剰に注文しようとしているのがなんか許せない。別に毎回そう思う訳じゃないけれど。
そう思うと、世のハングリー精神保持者たちに対して、むしろ怒りが込み上げてくる。奴ら、許せん。空腹の中、そう思った。
その後、ごはんをモリモリ食べて空腹を満たしたら、そんな怒りはどこか遠くへ消えてしまった。
空腹になるとハングリー精神ではなく、方向性を欠いた怒りや攻撃性が向上するようだ。