実家の犬が踊る

狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり

自室とは我が内臓なり

 最近は掃除の話になるとこんまり先生の話が出てきて、アンチこんまり派の自分としては「粛清!」って言いたいくらいですけど、何でそこで折原一の小説ネタを思い出したように入れたんだかね。まあ思い出したからだけど。なんでアンチかと言うと、こんまり先生の方法で部屋をきれいにしても、一時的には気分転換でいいかもしれないけど、それを継続していくとなると、自分にとってはあまり楽しくないからだ。ときめく気配が全然しない。そもそも、片付けても片付かない現状(片付けリバウンド)に発狂もとい失神したって著書で言っているくらいですから、なんか既にこんまり先生の手段と目的が、自分にとっての目的と手段みたいなことになっている感じがするのである。

 どちらかと言えば、自分はこんまり先生の人間関係の方に関心があるよ。こんまり先生と付き合っていける人間ってこの世に存在するのか。両親ですら畳まれて収納されているのではないか、という想像も。自分なんてたぶん付き合ったら3秒後には部屋のゴミと一緒に粛清されてますよ、ええ。ときめきの踏み台となって夢の島に収納されている可能性だってある。

人生がときめく片づけの魔法

人生がときめく片づけの魔法

人生がときめく片づけの魔法2

人生がときめく片づけの魔法2

 

 そうそう、それで部屋と自分の距離感について考えたのだった。おそらくその距離感には二種類の方向があって、ひとつは部屋と自分の距離をできる限り縮めていく方向。もうひとつが、部屋と自分の距離をできるだけ遠くに離していく方向。

  距離を縮めていく方向というのは、最終的には部屋と言う空間=自分になるのが完成形なのだと思う。部屋と言う空間を自分の中に取り込んで、自分の中にある内臓のひとつにするようなイメージ。自分の臓器が仮想的に増設された状態なので、自分自身の感覚と処理能力が拡張したような状態で、そこは居心地がよくリラックスできる空間となる。だから、アイディア出したりとか作業する分には捗ることが多いだろう。基本的には自分に便利なようにどんどん最適化されていく。その反面、居心地が良くなれば良くなるほど、最適化が繰り返されればされるほど、部屋自身はどんどんちらかっていく。臓器の喩えで言えば、内臓を酷使しているようなイメージである。

 

 逆に、距離を離していく方向というのは、縮めていくのとは全くの対極だと思う。普通、頭に思い描くようなきれいな部屋って、実際に再現したら生活感の感じられない部屋になったってことはよくある。無印良品のカタログに出てくるような部屋みたく。あれって、自分と部屋の距離感をできるだけ遠ざけた結果なのだと思う。部屋にとって自分は異物であり、自分にとって部屋は異空間である、という感覚。その感覚を維持しているからこそ、部屋はきれいに保たれていて、部屋と自分の間に常に緊張感が生まれているのだと思う。言うなれば、他人の部屋(特に、尊敬する人とか憧れの人の部屋なんかをイメージするといい)にお邪魔した時の感じ。なるべく汚したりしないように、自分をよく見せようとするように、そんな種類の緊張だ。緊張も行き過ぎなければ、心地よいものだ。適度な緊張や高揚は作業のパフォーマンスを向上させるのは誰しもが経験していることだ。前述の、距離を縮めて内臓化した部屋のリラックスが下手すると単なるダラダラとした気分になってしまうように、その緊張だって行き過ぎてカチンコチンにならなければ、快適な空間を作るのに役立つだろう。

 

 こんな風に、人によっては距離を詰めるタイプと離すタイプに分けられるのだと思う。自分はたぶん前者だと思うし、こんまり先生は明らかに後者だと思う。快適に過ごすために、あるいは何かの作業を効果的に行うために、自分にとって違和感のない方向はどちらかという話だ。だけど、自分含めて多くの人にとって部屋との距離を離すタイプの、きれいな部屋を羨望してしまうのは何故だろう。逆に、きれいな部屋を維持している人は、たまにはものすごくちらかしてみたいとか思わないのだろうか。あえてちらかすことで、不要なものを炙りだすような意味でも。

 なんでそう思うかと言うと、自分のような前者タイプであっても、たまに思い切って掃除したくなるからだ(普段も最低限の掃除はしているけれど)。そういう風にあえて大掃除をすることで、さらに空間の奥行きを複雑に(脳味噌の皺のように)、さらに最適化できる気はしている。そして、最近はちょうど大掃除したい欲求が高まりつつある。だから今日も部屋の掃除、部屋の粛清!(まだ折原一ネタ)

沈黙の教室 (双葉文庫―日本推理作家協会賞受賞作全集)

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