実家の犬が踊る

狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり

怪物を語る文法を考えるとき(「WORLD WAR Z」)

 そういえば「WORLD WAR Z」の文庫版が明日発売だった。ブラッド・ピットが映画化権を獲得して、今年の夏には映画も公開予定なので楽しみだ。

 ゾンビものというと間口が広いジャンルだと思っていたけど、狭い人にはかなり狭いという事実に驚きを隠せないイッパイハテナです。バカな・・・みんな、ゾンビ好きじゃねえの・・・?  ゾンビって描かれ方としては大きく分けて、単に人を追い詰めるモンスターとしてのゾンビと、人間のメタファーとしてのゾンビ(差別問題とか)があるのはゾンビ者としては常識ですが、この「WORLD WAR Z」はちょうどその中間の美味しいとこ取りしたゾンビ小説と言っても過言ではない。あらすじ自体が、もし現代にゾンビが発生したら、というのを全世界的規模でシミュレートした小説と言ってもいいくらいだから、現代の世界各国で抱えている問題(難民問題とか人口問題とか)がゾンビの発生によって緩和されたり促進されたりしていて、フィクションではあるものの、そこで描かれている各国の問題は現実と同じだ。あとゾンビの発生源が中国というのが妙に納得してしまう。

 

 この小説の面白い所は、様々な角度や立場からインタビューという形式で世界を襲ったゾンビについて語られている部分だ。一人ひとりの個人から見た世界の断片を寄せ集めて、全体像を描こうとしている。原題は「World War Z: An Oral History of the Zombie War」というのだけど、まさにオーラル・ヒストリーで、この作品の主人公はこの人類史上最大の闘い(World War Z)の口頭記録者である。テープレコーダーを手にし、この未曾有の大戦を生き残った人々に取材、インタビューをして回るという形式の小説で、一種の手記文学である。

 この本を読んでいて、毎回思うのは怪物を語る文法とは何か。そんなことを想起する。

 怪物を語る文法。そう考えた時、怪物を語った古典のいくつかがすぐに頭に浮かび、こう思う。怪物を語る文法とは、やはり手記形式と親和性が高いのではないかと。

 ホラーだと現在進行形の恐怖、次に何が起こるかわからないという主観的な恐怖が描かれがちだが、その恐怖の主体=怪物が描かれる時は記録や手記という間接的、客観的な描き方をされていることが多い。というか、自然とそういう書き方になっているのかもしれないとも思う。「吸血鬼ドラキュラ」だって「フランケンシュタイン」だってそうだ。

 ドラキュラにおいては、日記や手紙でドラキュラ伯爵やその城に滞在している間の異常性が綴られ、やがてその手記の集積=正確な記録によって怪物を追い詰めるという筋である。

 フランケンシュタインも、北極を航海している弟からイギリスに住む姉への手紙という形で、北極で出会った奇妙な男の口を通した口語筆記、記録された文字という形で、フランケンシュタイン(の怪物)について間接的に語られている。

 

 「WORLD WAR Z」もそうだが、インタビューの集積という性質上、また物語の全体像を描く手法として、語られる話の時系列はバラバラだ。この時系列をバラバラにして語るという手法は、何か凄いモノを語る時には結構効果的だったりする。凄いので全体像が見えないけれど、それでも語ろうとすると色々なワンエピソードの連発になり、それを語る時には時系列なんて考えない。この時系列の順序を意識しない、というのが何処で凄さの担保になっている気がする。新約聖書におけるキリストのエピソードもそれと同じロジックかな。別にどこから読んでも特に話が追えなくなるわけでもないし。まあ、それも語られる主体が本当に凄いという前提あればこそで、実がないのにそういう書き方をするとダダ滑りになることは間違いない。

 怪物が語られる文法、それは手記文学である。そんなことを「WORLD WAR Z」を再読しながら思った。

 

WORLD WAR Z 上 (文春文庫)

WORLD WAR Z 上 (文春文庫)

WORLD WAR Z 下 (文春文庫)

WORLD WAR Z 下 (文春文庫)

 

吸血鬼ドラキュラ (創元推理文庫)

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フランケンシュタイン (創元推理文庫 (532‐1))

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