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実家の犬が踊る

狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり

工学的思考あるいは話の噛み合わなさと脱線について

 今回はだらだらと書くよ。

 男女の話は噛み合わないと言われているが、同性でもたまに噛み合わないことがある。とか書くと、また一つ自分のコミュ障ぶりが露呈されてしまう訳なのだけれど、どうして噛み合わないのかという事はぼんやりと分かっている。月並みな言い方だけど、やはり「悩みを解決してほしいわけではない」「単に話を聞いてほしいだけ」という所に落ち着くのではないかなと思う。自分の場合は、話を聞いているとついつい解決方法を模索してしまうことがよくある。でもそうじゃないのだろうなあ。

 だが、それが自分にはいまいち理解できない。理解できるけど、納得はしてないというやつだ。ネタに全マジレスいくない、と言えば全くその通りで自分も話すこと全てに解決手段をマジレスされたら「お、おう・・・」みたいな感じにはなるのだろうけど。いや、それはそれで面白いのか?

 ここからは、自分のバイアスがかかりまくった思考の話になるけど、自分みたいに特に秀でている所がなく、コミュニケーション不全の人間がこれまで生きていた中で、何か目的があるけどそれを達成するには現行の能力が不足している、という事が多かった。ほとんど、と言っても過言ではないだろう。今でもそうだし、これからもそうだろう。それは揺るぎない事実として受け止めている。

 

 だけど、その現実を正面から受け止めてしまうと、何もできないという結論になってしまう。だったら真っ向から努力すればいい、という意見は確かにあるけど、努力が必要な時間を考えたら寿命の方が短いことだってある。努力嫌いの自分から見ると、努力というのは基礎的な分野に対しての有効度は概ね高いが、専門性が高くなると分野によっては有効度にバラつきが出てくるし、基礎的な分野に比べたら低下傾向にはあると思う。でもまあ、世の中には自分の手持ちが色々足りなくてもやらなければならない事は多い。それもまた事実だ。

 

 じゃあどうしたらいいか?

 

 そこで発想を逆転する。スタートからゴールを考えて駄目なら、ゴールからスタートを考えればいいのである。何かを犠牲にしたりしなかったりして前に進むショートカットの発想だ。まずはゴールを阻害する要因を、制約をどんどん捨てていく。理想的解決を捨てる、次善の妥協を捨てる、コスト、時間、倫理・・・・・・どんどん全部捨てたら目的までの最短距離が見える。ゴールまでに最低限満たしていないといけない条件が見えてくる。条件が分かるとそれが実現可能かが目算できるようになる。

 高校やなんかのテストで言えば、単位取るのが最低限の目的ならば、そのために100点満点を取る必要はなくて、合格点の60点取れればいい。その60点取るためにどうすればいいかが見えてくる。どこを重点的に押さえておけばいいかが見えてくる。 そんな感じ。

 とまあ、テストならこういう発想は特に珍しくもなく、大体の人が無意識なりにやっていることだ。でも、他の事象についても同じことができているかと言えば、それは結構バラバラだ。色々な局面で100点満点、90点以上という理想を捨てきれないことは意外に多い。そこを、自分にとって必要な理想だけ残していって、それ以外については同じように理想を捨てていくという拡張をする。その拡張範囲が大きい人をポジティブシンキング、現実主義者と自分は考えているのだけど、その定義が世間のそれと合っているかは知らない。それでも「ポジティブシンキング!」と口癖のように言っている人は自分の想定するポジティブの人ではないなあとは思う。前者の瞳は人間の可能性とか理想に満ちて何も映っていないんじゃないかと勘繰るほどヤバいぐらいキラキラと澄んでいるけど、自分の想定するそれは、もっと現実を見据えた結果ちょっと濁った瞳をしている感じ。どっちが悪いとかじゃないけどな。

 

 そういった理想を手放していくと、つまり何の制約も考慮しなければ、極端な話「結果的に目的が達成できる方法とは何か」という問いに至る。それだけだと実際の問題としては的を半分得ていて半分外しているのだろうけど、その的の調整は後でやればいい。そこに、別に明確な根拠がなくてもいいのだ。自分で行けると思い込めたならそれでいい。できない人間がやるには、できると無理にでも思い込まないとやってられない時もあるのだ。

 そして、そのできる目算が立てたら、そこから捨てた制約を上乗せしていく。コスト、締切、ルール、その他・・・。上皿天秤の片方に計りたい物を乗せて、もう片方に分銅を少しずつ乗せていく感覚である。そこでバランスの取れる部分を見つけて、乗せた制約を検討して、手段を詰めていく・・・・・・という風に、なんか文章で書くとややこしいし、実際にはスタートとゴールの両方から進んで考えているのだとは思うけど、誰しも大なり小なりそういう風に考えているのだと思う。

 

 タイトルに書いた工学的思考という言葉だけど、自分にとっては工学というものを根本的にそういうものだと捉えているのだと思う。小さい部品に分解して、必要なものだけを運んで、別の場所で組み立てる、と言った考え方。

 料理や食べ物なんか 身近なものの中でそういうショートカットを多用している最たるものだと思う。料理の工夫って、基本的には方法を変えても同じ効果が得られるよというテクニックだからだ。その工学性というか考え方は、自分が料理の好きな要因にもなっている気はする。同じスタート地点から同じゴールまで辿り着くのに、工夫するのとしないのとでは、その道筋はだいぶ違ったものになるだろう。

 コンビニ弁当はあまり食べないけど、きっとその製造工程は合理性と工学性の塊なのだろうと思う。作り方はおそらくその弁当から受ける印象とは少し距離のある「工程」だろうと予想できる。同じ出来上がりのものを台所で再現しようとしたら、きっと工場での工程とは比べ物にならない労力と時間がかかると思う。でも、結果的にできたものを評価する側、つまりお金を出す側が何も気にしなかったらどちらでもいいということになる。ある意味では結果主義。

 

 焼き魚と、蒸した魚に熱した鉄串で焼き色をつけたものは、見た目としては同じだ。細かい味の差を気にしなければ、気付かなければ、焼いた魚を食べた気分になれるだろう。リンゴジュースを飲む事と、リンゴ香料を嗅ぎながら砂糖水を飲む事は種明かししなければ、どちらも同じくリンゴジュースを飲んだ気分になって、同じくイコールで結ばれる。その二つに差はない。差があるとすれば程度だけだ。やり過ぎかかそうでないか。そこに、全てあるいは部分的に違和感のある人も、全然違和感のない人もいるだろう。でも一体、その両者の間で何が失われているのか、何が足りないのか、うまく説明できる人は少ないだろうと思う。自分でも上手く説明できる自信がない。

 って、ここまで長々と書いてたけど、平たく言うと、コストとリターンを考慮するという話なんだけど、割と自分にとっては殺伐とした話なのである。というか、思いついた端から書き過ぎで脱線しすぎじゃないの、自分?

 なんていうか、そういう手法や考え方が自分にとっての工学で、それを使って今までやってきたから、だから問題が発生したら、ほぼ自動的にショートカット方法・解決方法を考えてしまうのだ。だから、悩みだけ話したら、解決方法が見えなくてもそれでいい、って人にいまいち納得できない部分がある、という話。

 

 何となくその発想で思い出した小説で「猿の手」という短篇小説がある。

怪奇小説傑作集 1 英米編 1 [新版] (創元推理文庫)

怪奇小説傑作集 1 英米編 1 [新版] (創元推理文庫)

  あらすじはこうだ。願い事を3つ叶えてくれるという猿の手をある家族が手に入れて「大金が欲しい」と願い事をする。翌日、息子が事故死してしまい、その保険金が支払われた。その金額はまさに願い事をした金額と同じだった。願いは確かに叶って、確かに大金が手に入った。不吉な予感を父親は感じるが、息子を失った悲しみに母親は「息子を生き返らせてほしい」と願ってしまい――という内容。短くて読みやすいので、是非読んでみてほしい。

  この短篇は結構好きで、結果だけの帳尻を合わせた「猿の手」に何か近しいものを感じるからだ。願いが叶う、目的を達成することの最低ラインが、この「猿の手」なのだと思うと、目的を達成する時に必要な「覚悟」が少し見えてくるような気がする。

   余談だけど、この工学的思考を進めていくと「悪の教典」のはすみんに共感を覚える部分がある。後半の展開は賛否両論あるのだろうけど、あれってまさに現状を完全に見据えた中でのベターを現実的に積み上げようとした人間の成れの果て、スタートからゴールのショートカットを突き詰めた人間の姿という気はする。そういった短絡化を完全に突き詰めた人間を、世間ではサイコパスと呼ぶのだろうけど。

 いや、自分がサイコパスの理屈を分かっちゃまずいような気もするし、ここまで読んでもらった挙句に話が噛み合わないのは結局、自分がおかしいという印象を持たれかねない気がしてきた(笑) 嘘! 全部嘘だから!(へんじがない)

悪の教典 上 (文春文庫)

悪の教典 上 (文春文庫)

悪の教典 下 (文春文庫)

悪の教典 下 (文春文庫)

 漫画版もグッドアフタヌーンにて連載中。

悪の教典(1) (アフタヌーンKC)

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